土曜更新 日本史 征夷大将軍編 今日は足利義持(在職:1395~1423)室町幕府第4代将軍

父親(足利義満)嫌いの将軍

足利義持が4代将軍になるも、9歳であったこともあり政治の実権は足利義満が握っていた。ただ、父親嫌いの原因は、実権を握られていたからというよりも異母弟の足利義嗣を義満が異常にかわいがっていたからといわれる。その例として、義嗣が元服の儀の際、清涼殿(天皇の御殿)で行う破格の扱いを受け、かつ、足利義持は御所周辺の警備を担当させられるという屈辱を受けている。また、守護大名の多くは義嗣が次の征夷大将軍になるとみていたことから足利義持は相当嫉妬してとみられる。

足利義満死後の足利義持の政策は父親への反抗ととれるものが多いのが特徴である。

テストに出るポイント

勘合貿易の中断→朝貢形式(日本は明より下)を嫌い、中断する。これも父の政策の否定の一つであったといわれる。(6代将軍足利義教(よしのり)の時に勘合貿易は再開)

勘合貿易をまとめると 開始義満 中断義持 再開義教

上杉禅秀の乱(1416年)→前関東管領上杉禅秀が鎌倉府の内紛に乗じて反乱を起こすも鎮圧される。杉禅秀の娘は足利義嗣の側室だったことから、足利義嗣は幕府内で上杉禅秀と内通していた疑惑のある人物として名前が挙がり京都から脱出するも幽閉され、出家のあと、義持の命により殺害される。ちなみに関東管領上杉氏が世襲していた。

足利義持は父義満が作った北山邸を金閣寺を残して取り壊す、朝廷は足利義満太政法皇の尊称を与えようとするも義持と斯波義将はこれを拒否。

足利義持は息子の義量(よしかず)を5代将軍にするも17歳で亡くなってしまう。義量には子供がいなかったため、将軍不在のまま足利義持が政治を続けていく。

足利義持が臨終の床についた際、幕府重臣の守護大名たちは将軍後継者を誰にするか足利義持に問う。しかし、義持は返答を拒否。残っている4人の弟からくじ引きで決めることを提案。義持はこれに承諾したことから周りの守護大名は呆れかえったという。くじ引きで選ばれたのは出家していた義円であった。義円は還俗(出家したものが元の俗人にもどること)し足利義教(6代将軍)となる。

次回は足利義教

14:20教室入室

16:30授業スタート 授業に入る 粉河高1生 英語 スタデイサポート4ページ 下のカレー屋のバイトは順調にいっているとのこと。しかしクラブを休まなければいけないので板挟みになっているようだ。

18:00授業終了 近附高2生 春休み学校補習ある日Cコマ、ない日はBコマに調整。

明日は休 ㈪は16:30より授業