土曜更新 日本史 天皇編。今日は後一条・後朱雀・後冷泉天皇。これら3人の天皇は藤原道長の外孫であることから、教科書に記述がある。天皇家と藤原氏の姻戚関係は写真にある通り、

彰子(紫式部・和泉式部が仕えていた。)一条天皇 子供が後一条天皇(兄)、後朱雀天皇(弟)。

妍子(けんし)三条天皇(一条天皇の弟) 男子は生まれず。

威子♡後一条天皇 男子は生まれず。

嬉子(きし)後朱雀天皇。子供が後冷泉天皇

ここまでの4人の女性は藤原道長の娘。

テストに出るポイント

藤原道長→藤原氏は天皇の外戚(外祖父、母方の親戚)として権力を集中。(当時、孫は母方の家に預けられるのが普通で外祖父の影響が強かった。)威子後一条天皇の皇后になった夜の宴会で藤原道長が歌を詠む。

この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思えば」私の心はこの満月のように満足している、という意味だが、周りにいた藤原実資(この歌が書かれている「小右記」(しょうゆうき)←道長に批判的、の作者)らはあまりに調子に乗った歌なので返歌を作らず、みんなでこの歌を詠みあげた。

藤原道長後一条天皇摂政の後、息子の藤原頼通氏長者(うじのちょうじゃ、氏全体を統率するもの)を譲る。

なお、藤原道長のことを書いた歴史書で「御堂関白記」←道長に好意的、があるが、道長は摂政、太政大臣にはなったが、関白にはなっていない

藤原頼通→50年にわたり、3人の天皇の摂政、関白をつとめる平等院鳳凰堂(10円玉の裏に描かれている)建立。

藤原頼通の「」は「道」ではないので注意。

後一条天皇の時に刀伊(とい)の入寇(1019)、平忠常の乱(1028~1031)、後冷泉天皇の時に、前九年合戦(1056~62)が起こっている。

藤原頼通は一人娘の寛子後冷泉天皇の皇后にさせるが、男子は生まれず。後冷泉天皇が亡くなると、藤原頼通天皇の外戚関係から外れ、平等院に隠居。藤原道長頼通から冷遇されていた尊仁(たかひと)親王が即位し、後三条天皇となる。次回は後三条天皇

14:30教室入室。

16:30授業スタート。授業に入る。紀北農芸高1年 数学 平方根。今日は元気だった。数学は通知表5が取れそうだ。

18:00授業終了。20:00~20:40総体までジョギング、筋トレの時間。唯一の運動の時間。

20:50岩出中3年母より着信がついていたのでtel。地方大会8位入賞した。来週くることができない日が出てきたので調整。

21:00先生にtelし、時間帯変更の件、留守telにふきこむ。明日は休。月は18:00より授業。