土曜更新 日本史征夷大将軍編 今日も徳川家斉 江戸幕府第11代将軍(写真は徳川家斉)
徳川家斉前半の治世は松平定信 の寛政の改革と重なるが、徳川家斉の意見に反するものがあり次第に徳川家斉は松平定信を遠ざけるようになる。
①寛政異学の禁(1790年)→朱子学を正学とし、湯島聖堂の学問所で朱子学以外の講義や研究を禁じて、儒官に柴野栗山(しばのりつざん)・尾藤二洲・岡田寒泉を任じた(この3人を寛政の三博士という)学問所は1797年に官立に改められ、昌平坂学問所と呼ばれた。
②出版統制令→民間に対して、政治への風刺や批判をおさえ風俗の刷新をはかる。林子平が「三国通覧図説」や「海国兵談」で海岸防備を説いたことを幕政の批判とみて弾圧 また、洒落本(お笑い)作家の山東京伝、黄表紙(恋愛もの)作者の恋川春町、出版元の蔦屋(つたや)重三郎→TUTAYAの名前の由来、を処罰。
③ラクスマン来航(1792年)→ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、漂流民の大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)を届けるとともに通商を求めた 大黒屋光太夫はロシアの首都ぺテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に謁見している
④尊号一件(1789年)→(日本史天皇編51光格天皇参照)
尊号一件と徳川家斉の大御所問題の対処をめぐる徳川家斉との対立や倹約にうんざりになった町民の不満もあり、松平定信は退陣に追い込まれ、6年余りで寛政の改革(1787~1793年)は終わる
松平定信が失脚した後、徳川家斉自身が政治を行う。
関東取締出役(かんとうとりしまりしゅっやく)を設ける(1805年)→土地を失う百姓が多く発生したことから荒廃地域が生じた 江戸をとりまく関東の農村では、無宿人や博徒による治安悪化に対する対策 徳川家斉の政治でテストに出るのはこれだけ
徳川家斉は派手な生活を送るように。江戸では倹約ムードがなくなり化政文化が始まり賑やかになる。
次回も徳川家斉 化政文化(全部書くと多すぎるので中学で習うところのみ)について
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