土曜更新 日本史 征夷大将軍編 今日は足利義勝(在任:1442~43) 室町幕府第7代将軍

なじみのない将軍だが、一応高校日本史教科書には載っているので掲載した。しかし、今まで定期テスト、入試問題で足利義勝の出題を見たことがない。

嘉吉の変(1441年)で6代将軍足利義教赤松満祐により殺害されると、すぐに赤松満祐討伐軍が出るかと思いきや諸大名は静観を保ったため、赤松満祐は自国である播磨国に帰ってしまう。

嘉吉の変が起こって約1カ月後にやっと山名持豊(後の宗全)が討伐軍の責任者となり、赤松満祐を討伐 名持豊播磨国を得て、3代将軍足利義満の時代に明徳の乱(参照:日本史征夷大将軍編12 足利義満(中編))で弱められた山名氏が復権することになる。

嘉吉の徳政()一揆(1441年)→足利義勝の代始めにおきる。数万人の土一揆が京都を占拠。幕府はついに土一揆の要求を入れて徳政令を発布した。

中世(日本の中世はおおむね院政期~戦国時代を指す)には支配者の交代によって、所有関係や賃借関係など社会の様々な関係が改められるという社会観念が存在していた。

室町時代に一揆には3種類あり ①土一揆(農民一揆、農民は土いじりをすることから土民と呼ばれていた)②国一揆(国人→地侍も混じった一揆)③一向一揆(一向宗→浄土真宗の一揆)、に分かれる。

どの一揆が応仁の乱(1467年)の前に起こったのか、後に起こったのかを覚えておくことがポイント

正長の土一揆(1428年)                                                               山城の国一揆(1485年)

播磨の土一揆(1429年)                    応仁の乱(1467年)               加賀の一向一揆(1488年)

嘉吉の土一揆(1441年)

幕府の徳政令には債権額・債務額の10分の1ないし5分の1の手数料を幕府の納入することを条件に(分一銭、という)債権の保護または債務の破棄を認めたものが多かった つまり少しでも幕府の収入を増やそうと、幕府の認め料を取ったという苦し紛れの方策である。

足利義勝は在任わずか8カ月、10歳で死去 弟の義政が8歳で将軍となる

次回は足利義政

14:00近附の樋口先生からtel (水)に岩出方面に回るので15:30頃あいさつにこられるとのこと

14:10教室入室

15:00授業スタート 授業に入る 那賀高3生 英語 ランドマークワークLesson10の3、4、5の後、ターゲット1900 6ページほど

16:30粉河高2生 英語 ランドマークワークspace elevator、Lesson8  バイト先でいろいろあったらしい

18:00授業終了 春期講習終了 明日は休 ㈪は16:30より授業