土曜更新 日本史 征夷大将軍編 今日も足利義教 室町幕府第6代将軍

室町幕府の地方機関として、鎌倉府や九州探題があった。足利尊氏(初代将軍)は鎌倉幕府の基盤であった関東を特に重視し、子供の足利基氏鎌倉公方として鎌倉府を開かせ(参考:日本史征夷大将軍編10足利尊氏(後編)④)東国(関東8か国と伊豆・甲斐を、後に陸奥・出羽の2か国も加わった)の支配を任せた。以後、鎌倉公方基氏の子孫が受け継ぎ、鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏が世襲した。鎌倉府の組織は室町幕府とほぼ同じで、権限も大きかったため、室町幕府と衝突するようになる。

永享の乱(1438年)→鎌倉公方足利持氏(基氏の曽孫)と関東管領上杉実憲(のりざね)の対立を契機に、足利義教上杉を支援し持氏を討伐した。足利持氏義教が将軍になる時、自分が将軍になるかと思っていたこともあり、還俗、くちびき将軍と義教を揶揄していたことから義教持氏を嫌っていたといわれる。

この時点で鎌倉府は一旦断絶する。

②結城合戦(1440年)→足利持氏の遺児を擁して結城氏朝が挙兵するも鎮圧される。

足利義教は猜疑心が強く、有力守護大名を弾圧していく。次は自分が殺されると考えた赤松満祐(みつ)が足利義教を能に誘い殺害する(嘉吉の変:1441年) 嘉吉は「かきつ」と読む 自分が高2の時の日本史の授業の時、教科書を読まされていた子が「かよし」と呼んでいたのを日本史の先生が訂正されなかったのでがっかりしたことがあった…

足利義教は「万人恐怖」といわれるほど人に厳しかった。例えば、儀式の最中にニヤニヤしているものに領地没収したり、酒の注ぎ方が悪いので出家を強要したり、法華経を説こうとした日親に、熱い鍋を頭にかぶせたり(鍋かぶりの日親という)…

足利義教が殺された直後、諸大名はすぐに動けなかったが、山名持豊(宗前)中心に兵をあげ、赤松満祐は討たれる。

次回は足利義勝

10:45今日15:00に来る予定だった母よりtel 18:00過ぎに変更に

その後医者に行く時間が取れそうなので宇野内科(西野)へ行ってきた 自転車置き場で診察された

14:10教室入室

16;15粉河高1生よりtel 今日の授業休

16:30授業スタート

18:00授業終了

18:20岩出中2生母本人入室 体験授業申し込み 3月末になって新規の生徒がある程度来てくれるようになった。

来週から新年度になるので、塾生も来週から新学年表記に 明日は休 (月)も15:00より授業