土曜更新 日本史 内閣総理大臣編 今日は第一次近衛文麿(このえふみまろ)(在職1937.6~1939.1)軍部出身ではなく貴族院議長をつとめ、後陽成天皇(日本史(天皇編47) 後陽成天皇 参照)の12世孫であることから元老・軍部・国民各層の期待を集めた。今日は日中戦争について触れていく。

テストに出るポイント

日中戦争(1937.7)→北京郊外の盧溝橋付近で日中両国軍の衝突事件が発生する。(盧溝橋事件)いったんは現地で停戦協定が成立したが、近衛文麿は軍部の圧力に屈し、当初の不拡大方針を変更し、兵力を増やし戦線を拡大した。これに対し国民政府側も断固たる抗戦の姿勢をとったので当初の日本側の予想をはるかに超えて全面戦争に発展。

両国とも宣戦布告のないまま戦闘が開始されたが、これはアメリカの中立法(戦争状態にある国への武器・弾薬の禁輸条項を含む)の適用を避けるためであった。

満州事変(1931)は奉天柳条湖(日本史(内閣総理大臣編31) 第二次若槻礼次郎 参照)日中戦争(1937)は北京盧溝橋、で起こっていることに注意。

第二次上海事変(1937.8)→日本軍が上海を占領。これに対し中国南京では対立していた国民党(国民政府)と共産党が協力(第二次国共合作)抗日民族統一戦線を成立させた。日本軍は大軍を投入し、年末には国民政府の首都南京を占領し、多数の中国人を虐殺したといわれる。(南京事件または南京大虐殺という)国民政府は長江上流(西)へと退いていき、南京漢口重慶と移動し抗戦を続けた。(写真の中国地図参照)

近衛声明→中国に対しての3度の声明を発表。

第一次(1938.1)→「国民政府を対手(あいて)とせず」→中国がこの先何を言ってきても日本は攻撃を止めないとし、日本は自ら和平の道を断つという強気な態度に出る。

第二次(1938.11)→「東亜新秩序」の確立。日中戦争の目的は日本・満州・中国のブロックを作ることにあるとしながら、ひそかに国民政府の要人汪兆銘(おうちょうめい)を重慶から脱出させ、親日の新国民政府を南京に樹立させる。しかし、弱体であった。

第三次(1938.12)→善隣外交・共同防共・経済提携、を発表。

3度の近衛声明が出た背景はヨーロッパで危機的状況(1939.9には第二次世界大戦が始まる)を背景にイギリスのアジア政策が軟化したため日本が中国支配を確立する好機ととらえたからである。しかし、イギリス・アメリカは日本への警戒心を高め、援蒋ルート(蔣介石を助け日本に勝たせないようにする)を通じて援助を続けたため、中国は日本に降伏するまで至らなかった。

次回も第一次近衛文麿。戦争へ向けての国内体制(国家総動員法)の確立などについて。

12:50教室入室

13:30授業スタート。

13:35昨日、熱のため欠席した那賀高1生入室。もうだいじょうぶのようだ。

13:40紀伊中1生母よりtel。お腹が痛いとのことで休。

15:00授業に入る。岩出小6生 国算 古典芸能、およその図形 復習。那賀高2生 世界史 10分間テスト 宗教改革~三十年戦争。

16:30紀北農芸高2生 数A 学校プリント 確率。だいぶできるようになった。11/5(土)に行った日高川町のプレキャンプの様子が今日(3(土))の23:00よりテレビ和歌山で放送されるとのこと。→みるとよく映ってました。小5塾生も隣でキャンプを作っていた。

18:00授業終了。

18:20那賀高3生が来なくなったのでtel。残り少しなので来るようはなし。

明日も13:30より授業。