土曜更新 日本史征夷大将軍編 今日は徳川家宣(いえのぶ:在位:1709~1712) 江戸幕府第6代将軍の地位に48歳でつく

テストに出るポイント

生類憐みの令廃止→前将軍徳川綱吉が臨終の際、生類憐みの令を続けるよう遺言したのだが、廃止に 遺言に背いて生類憐みの令を廃止することに老中は誰も反対しなかったといわれる。

正徳の治徳川綱吉の時に側用人だった柳沢吉保を退け、儒学の師で朱子学者の新井白石側用人部詮房(まなべあきふさ)を信任、政治刷新を図る(正徳の治という:6代家宣、7代家継の時代の政治をいう)

ちなみに側用人(将軍と大名の間に入る取り次ぐ秘書のようなもの)で覚えておくべき人物は、柳沢吉保(5代将軍徳川綱吉)→間部詮房(6代家宣、7代家継)→田沼意次(10代家治)

閑院宮家の創設→当時、宮家(親王家)は三家(伏見宮・有栖川宮・桂宮)しかなかったので、多くの皇子・皇女は出家して門跡寺院に入寺した。そこで幕府は天皇家との結びつきを強めたいこともあり、費用を献じて特例として閑院宮家を創設→後に光格天皇(参考:日本史天皇編51光格天皇)として即位

④朝鮮通信使への使節待遇簡素に→朝鮮通信使が徳川家宣の将軍就任の慶賀を目的に派遣された際、これまでの使節待遇が丁重すぎたとして簡素にし、さらに朝鮮から日本宛の国書にそれまで「日本国大君殿下」と記されていたのを「日本国王」と改めさせ、一国を代表する権力者としての将軍の地位を明確にした。

(「大君」が「国王」より低い意味を持つことを嫌い、8代将軍徳川吉宗以降は祖法尊重の方針から、もとの「大君」を記させた)

徳川家宣は死の床についたとき、側用人間部詮房を通じて新井白石に将軍継嗣について相談した。「鍋松(家継)は幼く、古来幼主の時に世が平穏であったためしが少ない。また天下の事は私すべきものではない。東照宮(家康)が御三家(尾張紀伊水戸)を立てられたのはこのような時のためであるから、自分の後は尾張殿(徳川吉道)に将軍職を譲って鍋松が成人した折には尾張殿の心に任せた方が良いか、あるいは鍋松が成人するまで尾張殿には西之丸で政治を執ってもらい不幸にして鍋松が死んだ場合には尾張殿に将軍家を継いでもらった方が良いか、どちらが良いだろうか」との徳川家宣の下問に対し、新井白石は両案ともに反対、鍋松を継嗣として譜代の者がこれを補佐することを進言した。徳川家宣もその案を受け入れ、間もなく息を引き取った(感冒(インフルエンザ)が死因といわれる)

次回は徳川家継

14:20教室入室

16:30授業スタート 近附高3生 来週㈯入試でずいぶん緊張していた。

18:00授業終了 那賀高生 中間テスト対策日程表郵送

明日、明後日は休 ㈫は16:30より授業