土曜更新 英語比べてみよう 今日は第二次近衛文麿(在職1940.7~41.7) 組閣に先立って近衛文麿と陸海・外相予定者の松岡洋右(日本の国際連盟脱退(日本史内閣総理大臣編34斎藤実(前編)③参照)の引き金となった人)との会談で、第二次世界大戦不介入方針からの転換、ドイツ・イタリア・ソ連との提携強化、積極的な南方への進出(南進)の方針を定める。(写真は組閣時→動画はこちら(NHKアーカイブスより)

テストに出るポイント

北部仏印進駐(1940.9)→1940.5月にドイツの進撃によりフランスが降伏し、ヴィシーの傀儡政権ができると、日本は援蔣ルートの遮断を要求。ヴィシー政府には拒絶する力は無く、日本軍(大本営陸軍部)はベトナムのハノイに進駐した。日本では北部仏印進駐といっているこの軍事行動は、若干の戦闘はあったが、ほぼ無血で進駐した。中国、アメリカ、イギリスは、日本軍が南進の姿勢を示したことを強く警戒するようになった。

日独伊三国同盟の締結(1940.9)→これによってドイツ・イタリアと枢軸国を形成することとなり、三国のいずれかの国が、三国以外の一国に攻撃された場合は他の二国はただちに政治的・経済的・軍事的に相互協力することを約束した。これはアジアにおいてはアメリカを共通の仮想敵国とするものであった。アメリカはすでに日米通商航海条約の破棄を通告していたが、さらに鉄屑などの資源の対日輸出をストップした。また援蔣ルートはビルマ=ルートで再開。12月に大統領として三選されたフランクリン=ローズベルトは日独伊三国同盟への明確な対抗姿勢を示した。

日ソ中立条約(1941.4)と日米交渉→悪化した日米関係の修復のため、アメリカの国務長官ハルと日本の駐米大使野村吉三郎(きちさぶろう)の間で日米交渉が行われたが、両者の見解には隔たりが大きく、進捗しなかった。

一方、時を同じくして日独伊三国同盟強化のためにドイツ・イタリアを訪問していた松岡洋右外相は帰途モスクワで日ソ中立条約を結んだ。これは南進政策を進めるためには、北方での平和を確保するばかりでなく、悪化しつつあったアメリカとの関係を日ソ提携の力で調整しようとするねらいもあった。(日ソ中立条約は日ソ不可侵条約ともいう。終戦直前ソ連側が破棄)

ヨーロッパでは、独ソ戦(1941.6)が開始されるという戦局の転換が起こった。その機会を捉え、交渉を打ち切って実力で打開すべきであるという主戦論が台頭。

第二次近衛文麿内閣は日米交渉の継続をはかるため、対米強硬論をとる松岡洋右外相を罷免。大日本帝国憲法下では大臣の罷免権はないためいったん総辞職する。

次回も第二次近衛文麿 新体制運動の結実(大政翼賛会など)に関して

14:30教室入室

15:00岩出小6生 国算 メディア、場合の数 先週休みぶん姉と同じ火曜に入れてほしいとのことで31(火)Dコマに入れることに。中学に入ってからの塾についてのはなし。

16:30紀北農芸高2生 英語 vista Lesson5の2 父方の祖母のところへ久しぶりに行ったはなし。コロナで最近行っていなかったそう。最近、ガンダムにはまっているようだ。

18:00授業終了 明日は休 (月)は16:30より授業