土曜更新 日本史征夷大将軍編 今日も徳川吉宗 江戸幕府第8代将軍

米公方徳川吉宗→大名に米を出させる上げ米(参考:日本史征夷大将軍編39 徳川吉宗(中編)①)に加え、商人資本の力を借りて新田開発を進め、米の増産を奨励。これらの施策によって年貢収入は増大して幕府財政はやや立ち直りを示した。米価の上昇によって武家の財政を安定させようとした。このため堂島米市場を公認した。さらに凶作に備え、米の代食品として甘藷(かんしょ:さつまいものこと)の栽培をすすめる→青木昆陽の影響による。

享保の飢饉」→1732年、西日本一帯でいなごが大量発生し、稲を食いつくして大凶作となり、全国におよぶ飢饉となった。このため民衆の暮らしは大きな打撃を受け、江戸は翌1733年に有力な米問屋が米価急騰の原因をつくったとして打ちこわしを行った。

*打ちこわし→米屋をぶち壊す 百姓一揆→村単位で領主に対し、年貢減免を直接訴える

*江戸の三代飢饉享保の飢饉・天明の飢饉(田沼意次:10代将軍徳川家治の時)・天保の飢饉(水野忠邦:12代将軍徳川家慶の時)

享保の改革の第2の柱は江戸の都市政策で、町奉行大岡忠相によって進められた。明暦の大火以後もくり返し大火に見舞われた江戸に防火施設を設け、町方独自の町火消を組織させた。町火消はいろは47組(のちに48組)に編成され、鳶(とび)人足のよる消防組織となった。

また、徳川吉宗は徳川家康のように徳川家を絶やさないよう、次男宗武(むねたけ)と四男宗尹(むねただ)にそれぞれ田安家・一橋家を。長男徳川家重(いえしげ:9代将軍)の次男重好(しげよし)にはじまる清水家とあわせて、三卿(さんきょう)とよばれる。

太宰春台を信任し、政治改革論「政談には、人口問題の記述や身分にとらわれない人材登用論が記されている。

徳川吉宗は1745年に隠居し、長男徳川家重に将軍職を譲る。以後、1751年に徳川吉宗が死去するまで大御所として政治をみることになる。

次回は徳川家重

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