土曜更新 日本史征夷大将軍編 今日も徳川家綱 江戸幕府4代将軍

徳川家綱の時代に武断政治から文治政治へと転換されるが、江戸幕府やいくつかの藩主が儒学(朱子学)を重視したことがある。

儒学とは孔子が説いた主君に対すると父祖に対する、それに礼儀による秩序をまもることを要求したもので、平和な世では、下のものが上に反するより、上に従順である方がまとまるので上の立場の人からすればやりやすかったのだろう。

幕府では藤原惺窩(せいか)の門人の林羅山徳川家康に用いられ、徳川家綱の代まで仕え、林羅山の子孫(林家)は代々儒者として幕府に仕え、学問と教育をになった。

諸藩では、保科正之(徳川家光の弟:会津藩)→山崎闇斎(朱子学者)

前田綱紀(加賀藩)→木下順庵(朱子学者)

徳川光圀(水戸藩)→江戸に彰考館をもうけ、「大日本史」の編纂を開始。明から亡命した儒学者朱舜水

を招く なお、徳川光圀は時代劇で放送されていた水戸黄門のこと。

池田光政(岡山藩)→閑谷学校(武士の子供のみ)花畠教場(庶民も勉強できる)を設け、熊沢蕃山を招く(陽明学者)

最後にテストには出ないが徳川家綱について

流罪となった罪人の話を聞き、家綱は「彼らは何を食べているのだろう」と近臣の者に尋ねたが誰も答えられず、それに対し家綱は「命を助けて流罪にしたのに何故、食料を与えないのか」と言った。それを聞いた父の家光は喜び、「これを竹千代家綱)の仕置きはじめにせよ」と家臣に命じ、流人に食料を与えるようになったという。

徳川家綱が食事をしていたとき、汁物を飲もうとしたところ髪の毛が入っていた。家綱は平然とその髪の毛を箸で摘まんで取り除いたが、小姓が慌てて新しい物と交換しようとした。家綱はその小姓に「その汁は途中で捨て、椀を空にして下げるように」といった。これは椀を空にすることにより普段のおかわりと同じ様に扱えということで、咎められる者が出ないようにと家綱が配慮したのであった。

つまり優しく寛容な人徳者であったということか。38歳で亡くなるが男子がおらず、弟の綱吉を養子となり、5代将軍となる。

次回は徳川綱吉

14:10教室入室

15:00授業スタート 授業に入る 那賀高3生 政経 共通テスト2024問二~四の途中 昨日、山崎小学校の学童ボランティアに行ってきた ボランティアは昨日休んだ那賀高3生とこの生徒の2人で40人ほどの小学生の相手をしたらしい ブロックを投げる子がいるかと思えば、感謝の手紙を書いてくれた子もいたとのこと。

16:35二中1生 ㈪に休んだのは熱中症の症状があったからだったそう。

18:00授業終了 明日は休 ㈪も15:00より授業