土曜更新 日本史 征夷大将軍編 今日も徳川家治 江戸幕府第10代将軍
徳川家治の時代は側用人→老中になった田沼意次(おきつぐ)が実権を握る この時代を田沼時代という。
田沼意次はゆきづまった幕府財政を再建するために、年貢増徴だけにたよらず民間の経済活動を活発にし、そこで得られた富の一部を財源に取り込もうとした。つまり三大改革(享保・寛政・天保)のように倹約路線ではない。
①株仲間の公認→株仲間とは商人の同業組合のことで、室町時代は座、中世ヨーロッパではギルド、中国では公行というのがほぼ一致する 商人に株仲間を公認し、運上(うんじょう)・冥加(みょうが)など営業税の増収を目指した
②印旛沼・手賀沼の干拓失敗→江戸、大坂の商人の力を借りて干拓工事をはじめるも、完成間近で利根川の大洪水で挫折 江戸時代は米経済のため、新田開発が積極的にこころみられていた 印旛滑・手賀沼は千葉北東 成田空港の近くにある。
③最上徳内を蝦夷地に派遣→仙台藩の医師工藤平助の意見を取り入れ、蝦夷地の開発やロシア人との交易の可能性を調査させる
④南鐐弐朱銀(なんようにしゅぎん)鋳造→それまで貨幣は秤量貨幣(重さをはかって値段を定める)であったが、この時はじめて定量の計数銀貨を鋳造させ、金を中心とする貨幣制度への一本化を試みた。
⑤天明の飢饉→1782(天明2)年の冷害からはじまった飢饉は、翌年の浅間山の大噴火をへて数年におよぶ大飢饉となり、東北地方を中心に多数の餓死者を出した。
田沼時代は幕府・役人の間で、賄賂や縁故による人事が横行し、武士本来の士風を退廃させたとする批判が強まった。田沼意次の子で若年寄の田沼意知(おきとも)が江戸城内で刺殺されると、田沼意次の勢力は急速に衰え、徳川家治が死去(1786年)するとすぐに老中を罷免され、多くの政策は中止となった。
徳川家治は側室が男子を2人産んだものの早世したため、一橋家の徳川家斉(いえなり)を養子に迎える。
次回は徳川家斉
13:10教室入室
13:40岩出小6生がやってきた
14:00漢検スタート
14:10ずいぶん雨が降っていると思っていたら警報が出ていた 漢検を止めるのは無理があるので続行
15:00漢検終了 雨は降っているがましにはなっていた
15:25近附高3生母にtel 今日の授業どうするか相談したいので本人にかわってもらう 授業は休で㈬に振替
交通短大合格した
20:50自転車置き場に置いてある自転車がひっくりかえっていたので立て直しに行こうとしたら、なくなっていた
来週は中3生三者懇談を行うことに
明日、明後日は休 ㈫は16:30より授業