土曜更新 日本史戦国大名編 今日は豊臣秀吉(1537年~1598年) 全国統一、政策、朝鮮出兵、桃山文化など5回に分けて書いていくことにする。

豊臣秀吉木下藤吉郎という農民であったが、織田信長の草履とりから、出世し、天下統一をはたした。今回は信長が殺された本能寺の変以降、天下統一までの戦い模様を書いていく。

山崎の戦い(1582年)→織田信長を殺した明智光秀に勝利した戦い(日本史戦国大名編11 明智光秀参照)

賤ケ岳の戦い(1583年)→信長の重臣であった柴田勝家賤ケ岳(滋賀県長浜市)で破る。

大坂城築城(1583年~1588年)→水陸交通にめぐまれた石山本願寺跡に築城 「坂」の文字は「土に返る」という意味にも取れ、縁起が悪いという理由から1872年から現在の「阪」になっているが、当時は「坂」

小牧・長久手の戦い(1584年)→徳川家康織田信雄との戦い 織田信雄信長の次男で(長男信忠は本能寺の変で戦死している)徳川家康信雄の後を推すという名分を得て、秀吉と対峙。秀吉信雄と和解し、秀吉と戦う理由がなくなった家康は和解。

秀吉は1858年、関白に任じられ、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降して四国を平定すると、1859年には太政大臣に任じられ、豊臣の姓を与えられた。 関白になった秀吉は、天皇から日本全国の支配権をゆだねられたと称して、全国の戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定を秀吉に任せることを強制した(惣無事令、という)

そして惣無事令違反を理由に、薩摩の島津義久を征討して降伏させ(1587年)、さらに達政宗ら東北の諸大名を服属させ、1590年に小田原北条氏政(氏康の息子)を滅ぼし(小田原攻め)、全国統一を完成した。

次回も豊臣秀吉

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