
土曜更新 日本史 戦国大名編 今日は武田信玄(1521~1573年) 甲斐から信濃に領国を拡張した戦国大名
①甲州法度之次第( )→武田信玄の分国法 喧嘩両成敗の記述あり
②川中島の戦い→武田信玄は信濃(長野県)を手に入れるも、海に面した土地がないことから越後進出を計画 上杉謙信と5度にわたって戦った 特に4回目の戦いでは、上杉謙信と武田信玄の一騎討ち(上杉謙信が3太刀討つも、武田信玄は軍配で防御する)がある お互い賢いことを認め合っていたことから動きが慎重になり、引き分けに 後に、武田信玄が塩不足に悩まされているのを上杉謙信が知ると、敵同士でも領民は関係ないとの考えから上杉謙信は武田信玄に塩を送っている(敵に塩を送る)
③三方ヶ原の戦い→武田信玄は室町幕府15代将軍足利義昭(日本史征夷大将軍編24足利義昭(後編)参照)の織田信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発。徳川家康は浜松城に籠城の構えを見せたが、浜松城を攻囲せず西上する武田軍の動きを見て出陣。しかし、遠江三方ヶ原において、武田信玄と決戦し惨敗する 徳川家康は武田信玄の脅威に尿糞を漏らして城に逃げ帰ったという 徳川家康はこの時の様子を絵師に描かせ、後に調子に乗った時、この絵を見ることによって慢心への戒めとしたという。江戸時代が成立してから評価を落とされた豊臣秀吉とは対照的に、信玄は「家康公を苦しめ、人間として成長させた武神」として高く評価された。
武田信玄は三河に侵攻した直後から度々喀血(気管や呼吸器系統から出血し、口から血を出すこと)し、持病が悪化。武田軍の進撃は停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、残念ながら甲斐に撤退する途中で亡くなってしまう。
風林火山の旗が有名である為、信玄の代名詞とされる事がしばしば見られる。
はやきこと風の
武田信玄の本拠地である甲斐は釜無川、笛吹川の二大河川の氾濫のため利用可能な耕地が少なく、年貢収入に期待ができなかったので、治水洪水を行った(信玄堤)
次回は武田勝頼
13:00教室入室
13:30授業スタート 授業に入る 岩出中1生 社会 白プリント1(世界の国々)。岩出中2生 数学 学校テキスト数 式の計算 5ページほど。
15:00中3生 英語 英検 疑問詞のところ
16:30授業終了 体験終了の中3生母入室され本人も交え話し合い 英語でなく社理で入会することに
明日も岩出中学中間テスト対策 13:30より授業