土曜更新 日本史征夷大将軍編 今日は源実朝(在任1203~1219)鎌倉幕府3代将軍 源頼朝の息子、源頼家の弟
しかし政治の実権は12歳で将軍になった源実朝ではなく、将軍を補佐すると言う名目のもとで北条時政が握る。
北条時政は、源実朝の乳母である阿波の局(あわのつぼね)の父。北条時政と源実朝の関係は、祖父と孫みたいなイメージ。
北条時政は、所領裁判など本来将軍が判断すべき決定権限を全て自身の署名で行うようになり、権力を掌握。(執権政治の始まり)
ところが1205年、北条時政は源実朝を排除して娘婿の平賀朝雅(ひらがともまさ)という人物を将軍にしようと企むが、娘の北条政子(源実朝の母)により失脚。父であろうとも理不尽なことをしたら断固足る決断をするという北条政子の行動から「尼将軍」と言われるように。北条時政がそのような理不尽なことをしたのは牧の方という女性にたぶらかされたらしい。
北条義時(時政の息子、政子の弟)は2代執権となり、侍所(御家人の統括)の別当(長官)である和田義盛を滅ぼす(和田合戦)
源実朝自身は武士というより文化人で、金槐和歌集(「槐」は土へんではなく木へんなことに注意)を編纂したり、藤原定歌(新古今和歌集の編者)と親交があり百人一首(写真:まんがでみる百人一首)にも96首目に鎌倉右大臣として出ている。
また源実朝は現実逃避型で、大船を作り宋に渡ろうとするも失敗したという記録がある。
源頼家(2代将軍)の子である公暁(くぎょう)は父が殺されたのは源実朝が原因であると思い込み鶴岡八幡宮で源実朝を殺害。公暁は北条義時により討たれ、源氏の血は絶えてしまう。
北条義時・政子は他の御家人に関わりない皇族を将軍にしようとするが後鳥羽上皇と折り合い悪いことから実現せず。摂関家から源頼朝の遠縁である藤原(九条)頼経を迎え4代将軍とする。(参考:日本史天皇編40順徳天皇・後鳥羽上皇(中編))
次回は藤原(九条)頼経
14:20教室入室
16:30授業スタート 授業に入る 粉河高1生 英語 ランドマークワーク エルツールル号のところ復習 今日はクラブの試合はなく明日にあるらしい。紀北農芸高3生 英語 学校プリント リスニングに出る言葉 塾は学年末テスト対策で終了するので満点・合格カードをノートに引き換えた。
18:00授業終了
19:35岩出中2生母よりtel 本人インフルにかかったとのことで来週㈫の授業休 25(木)Dコマに振替
19:40問い合わせtel ELSTは個人ではできなく塾のパスワードがいるので教えてほしいという。こちらの勉強不足でELSTを知らない話をする 調べてみるとAIに英語で話すといい発音かどうか判定してくれるものらしい。
明日は紀北農芸高3生の学年末テスト対策のため13:30より授業
北条時政失脚後は、時政の娘・息子の北条政子・義時が政治の実権を握るようになります。