土曜更新 日本史  征夷大将軍編  今日は徳川家綱 江戸幕府第4代将軍(在職:1651~1680年)

11歳で将軍になるも幕府機構はすでに整備され、会津藩主で叔父の保科正之(ほしな まさゆき)や譜代大名に支えられた。平和が続くなかで政治課題となったのは、戦乱を待望する牢人や、秩序のおさまらないかぶき者の対策だった。

テストに出るポイント

慶安事件(由井()正雪の乱:1651年)→徳川家綱がまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った由井正雪は、これを契機として、幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始する。計画では、まず丸橋忠弥が幕府の火薬庫を爆発させて各所に火を放って江戸城を焼き討ちし、これに驚いて江戸城に駆け付けた老中以下の幕閣や旗本など幕府の主要人物たちを鉄砲で討ち取り、徳川家綱を人質に取る。それと同時に由井正が京都の天皇を誘拐して政治の実権を奪い取る手筈であった。しかし、密告により失敗。

幕府はこの事件をきっかけに末期養子の禁(跡継ぎのいない大名が死にのぞんで(末期)、急に相続人(養子)を願い出ることはほぼ認められていなかった)を緩和した(→50歳未満の大名に認めら、お家取り潰しが減り牢人があまり出なくなった)

殉死の禁止(1663年)→成人した徳川家綱は代がわりの武家諸法度を発布した際、主人の死後は殉死(じゅんし:あとを追って死ぬこと)することなく、跡継ぎの新しい主人の奉公することを義務づけ、優秀な人材の損失を防いだ。

明暦の大火(1657年)→この時、江戸は約80日もの間雨が降らず乾燥した状態。さらに強風が吹き荒れ、火の回りを速めたといわれ、江戸市街地の約6割が焼失。江戸城も西の丸を除いてすべて焼失。56万人もの人々が犠牲になる(当時の江戸の人口の二割近く)

徳川家綱の時代は安定した平和な世になったことで、徳川家光までの武断政治から文治政治に変わる時期となり、文治政治の考え方は儒教に基づいた道徳的な考えであった。次回はこの時代の幕府、藩の儒者を顧問にした政治をみていく。

次回も徳川家綱

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