土曜更新 日本史 内閣総理大臣編 今日は第一次若槻礼次郎(在職1926.1~1927.4)1926年12月に大正天皇が崩御。昭和に改元された時の首相。「礼次郎」は「次」であり「二」でないので漢字で書く時に注意。前首相加藤高明の在任中の病死により、同じ憲政会の若槻礼次郎が首相となる。
テストに出るポイント
①金融恐慌→1927年3月、議会で震災手形(当時、関東大震災で日本経済は大打撃を受けていた)の処理法案を審議する衆議院予算質疑で、片岡直温(なおはる)蔵相の失言から、一部の銀行(東京渡辺銀行)の不良な経営状態があばかれ、ついにとりつけ騒ぎ(←個人で銀行に預金していた人々が一斉に預金をおろそうとする)がおこり銀行の休業が続出した。
その一環で経営破綻した鈴木商店に対する不良債権を抱えた台湾銀行が危機に陥っていた。
この事態を若槻礼次郎は緊急勅令(←天皇による命令)によって救済しようとしたが、枢密院(←天皇の相談役)の了承が得られず、総辞職となる。枢密院は軍部寄りの考えで北伐(蒋介石による中国北部進攻)を阻止したい考えだが、若槻礼次郎は幣原喜重郎外相の協調外交派だったので枢密院の了承が得られなかった。
なお、金融恐慌は世界恐慌の影響を受けているように思いがちだが、世界恐慌(アメリカウォール街の株暴落)は1929年9月であるため、影響は受けていない。(世界恐慌後の日本の不景気は昭和恐慌と呼ばれる)
②労働農民党が組織(1926年)されるも、党内で共産党系の勢力が強まると、議会主義・国民政党路線をとる社会民主党とそれらと中間的な立場に立つ日本農民党に分裂・離脱した。なお、労働農民党の前(1925年)に農民労働党(区別がつきにくい!)は共産党と関係があるとして即時禁止されたため、設立当初は共産党系を除外して結成される。
若槻礼次郎内閣総辞職後、陸軍で立憲政友会を与党とする田中義一が首相となり、金融恐慌の対策(モラトリアム)を行う。
次回は田中義一。
14:30教室入室
15:00授業スタート。授業に入る。岩出小6生 国算 熟語、平均値、中央値、最頻値。
16:30根来小5生 国算 図書館の復習、倍数公倍数。今日はアスリートと体操と2つの習い事を済ませてから塾にきたとのこと。紀北農芸高2生 数学 順列。
18:00授業終了。明日は休。(月)は16:30より授業。