奇数週 木曜更新 世界史 中国皇帝編 今日は煬帝(ようだい:在位604~618) 隋の2代皇帝。初代皇帝楊堅の次男 煬帝という名前は唐の時代につけられた追諡で本名は楊広。 隋を滅ぼした暴君のイメージがあることから、「」は照りつけるような明るさという悪いイメージから来ている。比較的質素であった楊堅に対し煬帝倹約生活から豹変し奢侈を好む生活を送った。

テストに出るポイント

大運河の完成→中国の東西と黄河・長江があり船輸送できるのに対し、南北を結ぼうと開削する。政治の中心である華北と経済の中心である江南を結合する。女性までも動員した急工事(秦の始皇帝の万里の長城の建築でさえ女性は免除だった)でこれを開削し、開通のデモンストレーションとして自ら龍船に乗って行幸したために、「自らの奢侈のために多数の人民を徴発した」などと後世に評されることになる。しかし、大運河の建設は、長期間分裂していた中国を統一するための大事業でもあった。そして、大運河の建設を隋の罪の一つとした唐は、大運河を活用することにより繁栄を築く事になる。

高句麗遠征→隋の近隣諸国には朝貢を促していたが、高句麗は挨拶にこないどころか遼西に攻めてきたことから高句麗遠征を行うも失敗→隋国内で反乱がおこり、隋の滅亡につながる。

③遣隋使小野妹子と謁見(607)→聖徳太子小野妹子を遣隋使として派遣した時、謁見した皇帝が煬帝だった。聖徳太子が書いた「日出づる所の天子、日沈む所の天子に~」の文章に煬帝は激怒したという(「隋書」倭国伝)これは日が昇る→東の倭国の天皇が、日が沈む国である隋皇帝に、というところと、天子(皇帝)は隋だけだと思っているところに倭にも天子(天皇)がいるよう書かれているところが逆鱗に触れたといわれている。→煬帝小野妹子の帰国に同伴し裴世清(はいせいせい)を日本に送るもそれを予期していた聖徳太子は法隆寺など日本のいいところのみを見せ、日本が進んだ国だということを煬帝に伝わるようもっていった。煬帝高句麗遠征中で日本と高句麗が手を結ぶと面倒なこともあり、日本を咎めることはしなかった。このことは聖徳太子の外交能力の高さを示したものである。

突厥(とっけつ)との関係→隋の時の異民族は突厥(トルコ系)であることがポイント

突厥は内紛によって、モンゴル高原を本拠地とする東突と、中央アジアを本拠地とする西突厥に分裂(583年)

隋との力関係で劣勢となった東突厥ははじめ隋に服属したが、隋に反旗を翻すことに(その時の隋の武将に李淵(唐の創始者)もいた)

突厥は抑えたもののその恩賞を渋ったことから煬帝への反感が募り殺害され、李淵東突厥に援軍をもとめ長安を占拠。禅譲され唐を建国する。(618年)

次回は

14:30教室入室

17:55おとついtelのあった小3生母本人入室。同級生が向陽中にむけての勉強をはじめたので入試対策希望。主人と相談しますとのこと。

18:00授業スタート

19:30授業に入る 二中2生 英語 塾プリント 受け身 復習

21:00授業終了 明日は公立高入試合格発表日 18:00より授業