奇数週木曜更新 世界史イギリス王室・首相編 今日はクロムウェル(護国卿在任:1653~1658年)
チャールズ1世を処刑したクロムウェルはジェントリ出身で議会派の軍隊内で指示を広めていた より急進的な主張を掲げた水平派を弾圧する一方、王党派の拠点となったとしてアイルランドやスコットランドを征服した 特に大規模な土地没収が強行されたアイルランドは事実上植民地化された
①航海法(1651年)→イギリスとその植民地への輸入品をイギリスか原産国の船での輸送を定めて、中継貿易で繁栄していたオランダに打撃を与えた このことから英蘭戦争が起こる イギリス優勢で終わる
*イギリスでは漢字3文字ないしは4文字の法が教科書にいくつか登場する(参考:世界史イギリス王室・首相編10ヘンリ8世真ん中あたり ) また英蘭戦争で日本も影響を受けている(参考:日本史征夷大将軍編47徳川家斉(補足)下のあたり)イギリス船がオランダ船を追い日本に近づいた時、オランダは日本と貿易していたことから長崎出島に逃げ込むがイギリスは日本に入国できず混乱し、長崎奉行が切腹する事態となる
クロムウェルは一時的に絶体王政を終わらせ、資本主義経済の自由な発展を妨げている特権商人の独占権を廃止するなどして、市民層の立場を強めた
②護国卿政治(1653年)→クロムウェルは終身の護国卿となり厳格な軍事的独裁体制をしいたが、国民の不満が高まり、クロムウェルの死後、チャールズ1世の子チャールズ2世が国王として迎えられた(王政復古)
なぜ、クロムウェルは国王にならなかったのか?またなぜ護国卿の政治が続かず、王政復古したのか?
議会はクロムウェルをオリバー1世として国王に推挙しようと試みた(1657年)が、それは国王に据えることによってむしろその権力を制限し、議会のコントロール下におこうとしたからだった。クロムウェルも議会に縛られることをわかっていたので、国王就任を拒否。王位の辞退後、クロムウェルは議会を一院制にしておくと抑制が効かなくなる怖れを感じ、第二院を設置し、40~70人の議員で構成させた。しかし第二院議員の大半はクロムウェルの友人であったため、かえって第一院(庶民院)の抑制が効かなくなるという、戦略ミスとなった。